2014年11月10日

「小説の読み書き」佐藤正午

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作家の書く書評というのはよくあります。

文庫本の解説もそのひとつかもしれません。

しかしその小説を作家という立場でどう読んだか、自分の感性と比較してどうなのか、なぜこのような書き方をしたのか、というのを分析するというのは意外とありません。

文章講座として一文を取り上げたり評論家の作家論というのはありますけども、それは書く立場としてどうこうではないですよね。

この本は『「小説の書き方」ではない「小説家の書き方」を小説家の視点から考える』というテーマです。

著者は佐藤正午。

曲者です。

高橋源一郎なんかじゃないのがいいですね。(笑)

取り上げられている小説は川端康成「雪国」、志賀直哉「暗夜行路」、夏目漱石「こころ」、太宰治「人間失格」芥川龍之介「鼻」谷崎潤一郎「痴人の愛」などなど・・・・。

現役の小説家はそれらの文豪の書き方をどう分析するのか。

大変興味深く面白く読みました。

ラベル:書評・作家
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2014年11月08日

「小僧の神様・城崎にて」志賀直哉

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18編収録された短編集。

「小僧の神様」は作者を“小説の神様”と呼ばしめる一因となったといわれている名作です。

秤屋に奉公している仙吉が番頭の話題にしていた鮨屋の暖簾を思い切ってくぐったものの、自分の持ち合わせでは食べることができず出ていきます。

それをたまたま見ていた貴族院議員のAが後日偶然に仙吉が奉公する店を訪れ、買い物した荷物を運ばせるついでにその鮨屋でごちそうするのです。

事情が飲み込めないものの、仙吉にとってAは神様のように思えてきます。

しかし善い行いをしたはずのAはどうにも寂しい気持ちになってしまいます・・・・。

舞台の表と裏といいますか、善と偽善の葛藤といいますか。

最後の一文は作者の冷めたリアリズムなんでしょうか。

「城崎にて」は死を間近に体験した作者の客観的な視線があります。

蜂や鼠、蠑螈の死をしっかりと凝視しています。

そして今自分が生きていることを認識します。

視線はやはり冷めていますね。

後半には自身の女性関係と妻を描いた作品が収録されています。

こういうのも小説にしてしまうのですねぇ、作家は。(笑)

ラベル:小説
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2014年11月06日

「交響曲第一番 闇の中の小さな光」佐村河内守

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両耳の聴力を失い、全聾の作曲家として『交響曲第一番 HIROSHIMA』を完成させ、現代のベートーベンとまでいわれた佐村河内守。

そんな天才作曲家の壮絶な半生の手記です。

読むと奇跡のドラマに感動し、涙せずにはいられないでしょう・・・・。

とまあ本来ならそうなるはずで、実際この本が出版されたときはそうだったと思います。

しかし日本全国誰もがその正体を知ってしまった今、これほどの壮大なホラをよく吹けたものだとそちらのほうに感心してしまいます。

この本の内容がどこまで本当で嘘かはわからないのですが、はっきりしているのは実際には耳が聞こえていたということ、そして作曲はしていなかったということ。

その事実を前提に読みますと、かなり痛々しい内容となります。

亡くなった弟さんや友情を育んだ障害者施設の子供たち、信頼して支えてくれた人たち。

その人たちにどのツラさげてということになります。

特に施設の子供たちに対しての欺きは重大です。

障害を持つ子供たちにとって佐村河内氏はまさに希望であり憧れであったと思います。

よくもまあそんな子供たちを欺き続けたものだと。

聴覚障害の作曲家として、「同情票を得ながらのうのうとメディアの中で作曲家として進んでいけるほどの図太い神経は、持ち合わせてはいませんでした。」という記述があります。

いやいや、それどころではないとんでもなく図太い神経をお持ちではないですか。

ピアノは初歩的レベル、楽譜は書けないとのことで、もちろん絶対音感なんてあるはずない。

それで作曲家としてメディアに露出し、こうやって本まで出すのですからその神経は並ではありません。

昔から虚言癖があったとのことですが、この期に及んで弁護士までもが佐村河内氏に不信感を持ち代理人を辞任したとか。

まったくいやはやです。

そしてゴーストライターだった新垣氏に逆切れ訴訟を起こし、テレビ番組にまで申し立てをしているようですね。

普通ならただひたすら申し訳ございませんと波風立たないように振舞うはずですが。

どこまでいっても自己主張の強い人なんだなと。

この文庫本が幻冬舎から出版されたのが平成25年6月。

正体を暴露されたのが平成26年2月。

幻冬舎も「アイタ~ッ!」といったところでしょう。

しかしそこは幻冬舎社長であり敏腕編集者でもある見城徹氏

もしかしたらこの騒動を逆手にとって、顛末の手記を佐村河内氏に書かせるかもしれません。(笑)

でも見城氏はどの時期でかはわかりませんが、インチキを見破っておられたとのことですが。

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2014年11月04日

「ねらわれた学園」眉村卓

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関耕児は中学2年生になったばかり。

そんなある日、生徒会役員選挙の立候補者の掲示があり、生徒会長候補者の中に高見沢みちるの名前を見つけます。

1年生のときはあまり目立たなかった彼女がなぜ。

高見沢みちるは演説会で不可解な能力を見せ、生徒会長に当選します。

そして信者たちで校内パトロールを結成し、超能力と思われる力で先生や生徒たちを抑えつけ、学校を支配しようと動き始めるのです。

耕児は幼馴染みで同級生の楠本和美やクラスメートたちと高見沢みちるたちに立ち向かっていきます・・・・。

もう40年近く前の作品です。

表紙の写真は82年に映画化されたときのもの。

この頃は角川映画がイケイケでした。

薬師丸ひろ子が若い。(笑)

小説のほうはいわゆるジュブナイルなわけですが、さすがに今読むとちょっとつらいですかね。

時代もありますし自分の年齢もありますし。

ストーリーもたいして盛り上がりなく。

ちょっとあっけなかったです。

昔読んだときはさほど不満を感じなかったように思いますが。

併録されている「0(ゼロ)からきた敵」はもう・・・・。

最後のほうはドタバタなギャグかと。

とはいうものの、眉村卓のジュブナイルシリーズをせっせと読んでいた頃を懐かしく思い出しました。

ラベル:小説
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2014年11月02日

「8月の果て(上・下)」柳美里

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主人公の李雨哲は作者の祖父です。

日本に統治されていた朝鮮の密陽で、マラソンでの五輪出場を目指していました。

しかし1940年の東京オリンピックは幻となり、出場することはできませんでした。

もし出場すれば確実にメダルを取れたほどのランナーです。

雨哲は既婚者にもかかわらずあちこちの女に手を出し、次々と子供を産ませます。

そして弟の李雨根は左翼活動にのめり込んでいきます。

動乱の朝鮮で雨哲はどのように生き抜いていったのか。

そして弟の雨根は・・・・。

上下巻合わせて1000ページを超える大作です。

日本統治下における朝鮮人の生活が痛々しく描かれています。

だからといって日本の過去を糾弾している小説ではありません。

ありませんが、こういうのを突きつけられると言葉に詰まります。

騙されて慰安婦にされた少女の章などはたまりませんね。

李雨哲(イ・ウチョル)という朝鮮名があるにもかかわらず国本雨哲(くにもとうてつ)と名乗らざるを得なくなった、走ることがすべてだった男の人生。

そんな男と弟が生きた時代。

そんな男を祖父に持った作家の物語です。

ひたすら「すっすっはっはっ すっすっはっはっ」という言葉が繰り返されます。

内容がマラソンならそれを書いた作者もマラソン、それを読む読者もマラソンです。

しかしくどいほどに挿入されるこの「すっすっはっはっ すっすっはっはっ」が非常にリズミカルで心地よい。

そして戯曲形式だの歌詞だの日本語と朝鮮語を混在させたりだの、あらゆる手法が使われて物語は進行していきます。

ただちょっと作者の思いが激しく筆が走り過ぎ、手綱を捌き切れていない感はありますけども。

ひたすら涙を流し血を流し走り続け、最後の言葉が「自由!」。

私たち平和な国の日本人が当たり前に享受しているこの言葉のなんと重みのあることか。

柳美里、渾身の作品です。

ラベル:小説
posted by たろちゃん at 04:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 『ゆ』の著者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする